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2010年10月20日 (水)

まぼろしの爆心地を歩く

先週の土曜日、「幻の爆心地をたずねて」というさるくツアーに参加して来ました
長崎に落とされた原子爆弾の、最初の目標都市が福岡県の小倉だったことをご存知の方は多いでしょうが、長崎市の中でも本来の目標地点というのは、浦上地区ではなく違った場所でした。
そこが当日は雲に覆われていて、上空から見えなかった為に、現在の場所に投下されたのです。

Photo_5   

↑は、米軍が使っていた航空写真地図(復元)です。
白い線が交わっているところが、本来の投下目標地点。
説明するガイドさんの背中側には、市内中心部を流れる中島川(有名な眼鏡橋も架かっている川です)が流れています。
ここから現在の爆心地までは、3.4kmほど離れています。
米軍が想定していた原爆の有効破壊半径、2.3km円内に、県庁、市役所、駅、繁華街が現在もあります。
長崎の都市機能の完全な破壊が目的だったことがよくわかります。
今も昔も、最も人が集中する地区ですから、もしここに落とされていたら、更に大きな被害が出ていたことでしょう。
一般人が多くいようがいまいが、最も効果的な場所を狙う…。
戦争というものの、容赦の無さを、改めて突きつけられた思いがしました。
それと同時に、実際の爆心地になってしまった、浦上地区の悲運も感じずにはいられませんでした。

今回は、原爆の2次災害と言われる、火災が広がった道筋もたどりました。
ゴールは、当時、市内で最大の救護所として使われた、小学校(当時は国民学校)の跡地。(今は市立図書館になっています)
そこで解散となりました。

Photo_6

↑その小学校に、戦時中もあった二宮金次郎像。この像も被爆遺構ということになります。
すっかり変わってしまったあたりの景色を見ながら、金次郎像は何を思っているのでしょう。

今回、実際に火が燃え広がった経路に沿って歩いたり、本来の投下予定地点を確認したりと、自分の足で歩き、目で見れたのはとても良い体験でした。
わずかですが、当時のままのものが残っていることも知りました。(石垣や建物など)
現地を実際に訪ねることの大切を感じました

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コメント

長崎に行かれたんですね。。最初の目標だった。。
小倉。。私の実家があります。。何だか感慨深い
ものを感じました。自分の存在しない時代の事
ですが。。胸がいたみます。。

投稿: jazzmaine | 2010年10月20日 (水) 12時31分

>Jazzmaineさん
ツアーと書いたので、旅行に行ったと思われたのですね
私は長崎在住なのです
小倉からも、毎年たくさんの小学生が修学旅行で被爆地周辺の見学に来ています。
いろんな思いを感じて、帰って行ってくれるといいな、と思ってます

投稿: りとるこっとん | 2010年10月20日 (水) 13時29分

私の母(当時14歳)は、その原爆の二次災害の火災で全てを無くしました。
家族8人無事でしたが持ち出したものは蚊帳一枚だけです。被爆以前の写真も一枚もありません。まあ、命があっただけありがたいと思わなければいけませんが・・・
当時母が住んでいたのは「幻の爆心地」から
約100メートルってとこです。
そこに落とされていたら確実に家族全員死んでいたでしょうね。
そう考えるとやはり「生かされている私」は「伝えなければならない私」なのだと思うのです。

投稿: ひさちゃん | 2010年10月21日 (木) 00時12分

>ひさちゃんさん
今回、お母様のご実家があった場所を、実際に確認して、投下予定地からの近さに、本当に驚きました。
ひさちゃんさんの人一倍強い「伝えなければ」、の想いの原点を改めて知った気がします。
お互い、できることを、あきらめずにやり続けていきたいですね

投稿: りとるこっとん | 2010年10月21日 (木) 08時55分

私の祖父は小倉の兵器工場(ちょうど第一目標だったところ)で働いていたそうです。
それを知ったのは祖父が亡くなってから・・・・。

祖父は戦争の話は一切しませんでした。
私が「どうしてして戦争の話をくれなかったんだろう?」と叔母に聞いてみたら「その頃の話は私たちも聞いたことがないのよ。話すことすらできないくらいの思い出だと思うよ。」と。
被爆者の方でも語るのが辛くてできない方もいらっしゃいます。

祖父は亡くなるまで私(他の孫にも)と会うたびにお米券を必ずくれました。
「どうしてお米券なんだろう?」と思っていましたが、今思うと、食べることが何よりも大切で、その中でもお米は貴重だったんだろうなと。
食べる物があるという幸せ。
そのことに最近気付きました。

投稿: のら | 2010年10月24日 (日) 11時08分

>のらさん
もし予定通り小倉に落とされていたら、のらさん含め、たくさんの人の運命が変わっていたことでしょうね。
調べてみると、自分の親族も思わぬ戦争体験をしていたりするので、今のうちに聞けることは聞いておかねば、と改めて感じます。
お祖父様が孫に会う度に、お米券をくれていたことは、戦争で辛かった経験から得たメッセージがこもっていたのかもしれませんね。
今、のらさんが戦争のことを聞いたり学んだししている姿を、お祖父様は、嬉しく見守っておられるだろうと思います

投稿: りとるこっとん | 2010年10月24日 (日) 16時44分

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